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2010年6月7日月曜日

uchida : 2010年05月20日 豊臣秀吉の幻想 (内田樹の研究室から転載しています)

豊臣秀吉の幻想



続いて大学院のゼミ。
本日のお題は「韓国と日本」。
日韓問題はたいへんむずかしい問題である。
あらゆるむずかしい問題がそうであるように、この問題がたいへんにむずかしいものであるのは「日韓問題については、最適解があり、私はそれを知っている」と主張する人たちが複数いて、かつ彼らのあいだで合意形成ができていないからである。
通常、このような場合には「それらはどれも『最適解』ではない」と判断する方が生産的である。



そうすると問題の次数を一つ上げることができるからである。
「なぜ、日韓問題については当事者全員が合意できる『最適解』が存在しないのか?」
この問いについてなら、とりあえず対立している立場のあいだでも冷静に意見交換できる可能性がある(「可能性がある」だけで、もちろん「やってみたらやっぱり泥仕合」という可能性もあるが)。
まあ、やらないよりはまし・・・くらいの期待度で、その「なぜ?」についてゼミで考えてみる。



「なぜ、日韓問題については当事者全員が合意できる『最適解』が存在しないのか?」
私の意見を申し上げる。
その一因は「日本」と「韓国」という現存する国民国家の枠組みを過去に投影して歴史問題を論じているからではないかというものである。
過去のできごとのうちには「過去の時点」に立ち戻ってみないと、その意味がわからないものがある。



そういうものについては、いま・ここ・私を「歴史的進化の達成点」とみなし、そこから逆照明して解釈することは適当ではない。
歴史は別に進化しているわけではないし、人間は時代が下るごとにどんどん知的・倫理的に向上しているわけではない。
今の私たちにはうまく理解できないものが、過去の人々のリアルタイムの現場においては合理的かつ適切なふるまいだと思われていたということはありうる。
それを現在の基準に照らして「狂気」とか「野蛮」とかくくっても、あまり生産的ではない。



というのは「狂気」や「野蛮」というタグをつけて放置されたしたものはなかなか「死なない」からである。
「正しく名づけられなかったもの」は墓場から甦ってくる可能性がある。
私がそう言っているのではない。マルクスがそう言っているのである。
「狂気」や「野蛮」を甦らせないためには、それが「主観的には合理的な行動」として見える文脈を探り当て、その文脈そのものを分析の俎上に載せる必要がある。

今回の発表で気になったのは、「豊臣秀吉の朝鮮侵略」の扱われ方である。
ふつうはこれを「大日本帝国」の「李氏朝鮮」侵略の先駆的なかたちであり、本質的には「同じもの」だと考える。



私は簡単にこれを同定しないほうがいいと思っている。豊臣秀吉の時代に「国民国家」という概念はまだ存在していないからである(政治史的に言えば、国民国家の誕生はウェストファリア条約以前には遡らない)。
では、
豊臣秀吉は何を企図していたのか。
彼はそれまで分裂していた日本列島を統一した。列島の部族を統一したので、「次の仕事」にとりかかった。



それは「中原に鹿を逐う」ことである。
華夷秩序の世界では、「王化の光」の届かない蛮地の部族は、ローカルな統合を果たしたら、次は武力を以て中原に押し出し、そこに君臨する中華皇帝を弑逆して、皇位に就き、新しい王朝を建てようとする。
華夷秩序のコスモロジーを内面化していた「蕃族」はシステマティックにそうふるまってきた。



匈奴もモンゴル族も女真族も満州族も、部族の統一を果たすと、必ず中原に攻めのぼった。
そのうちのいくつかは実際に王朝を建てた。
豊臣秀吉は朝鮮半島を経由して、明を攻め滅ぼし、北京に後陽成天皇を迎えて「日本族の王朝」を建てようとした。その点では匈奴の冒頓単于や女真族の完顔阿骨打やモンゴルのチンギス・ハンや満州族のヌルハチとそれほど違うことを考えていたわけではない。
華夷秩序のコスモロジーを深く内面化した社会集団にとってそれは「ふつうの」選択肢と映ったはずである。



もし、このとき豊臣秀吉の明討伐が成功した場合(その可能性はゼロではなかった)、この「日本族の王朝」は、モンゴル族の王朝である元、漢族の王朝である明に続く、漢字一字のものとなったはずである。
仮にそれが短命のものに終わり、日本族は列島に退き、そのあとを満洲族の王朝である清が襲った場合でも、この王朝名はたぶん「中国史」の中に歴代王朝の一つとして記載され、日本の中学生たちは「世界史」の受験勉強のときに、その王朝名とその開始と滅亡の年号を暗記させられたはずである。



だって、それは「中国の王朝」だからである。
そんなはずはない。それは日本人が勝手に侵略して建てた王朝だから、中国の王朝には数えないということをおっしゃる人がいるかも知れない。
だが、それだと、夏も殷も周も出自は怪しいし、元と清はむろん正史からは削除されねばならぬし、金や遼も「テロリスト集団による漢土の不法占拠」として扱われねばならない。
秀吉の朝鮮半島への軍事行動は「辺境の列島に住む一部族が、ローカルな統一を果たしたので、半島に住む諸族を斬り従えて、大陸に王朝を建てようとした(が失敗した)」という、華夷秩序内部の「できごと」として考想されていたはずである。



侵略した日本人も侵略された朝鮮人も侵略の報を受けた中国人もたぶん「そういうふうに」事態をとらえていたのではないかと思う。
勘違いしてほしくないが、私は別に「だから、
豊臣秀吉の朝鮮半島侵略は歴史的に正当化される」というようなことを言っているわけではない。
「辺境の一部族が幻想的な王朝建設を夢見て、周辺地域に大量破壊をもたらした」という事実に争う余地はない。



そんなことをしないで列島でじっとしていればよかったのに、と私も思う。
ただ、その「幻想」がどういうものであったのかを見ておかないと、「どうして」そんなことをしたのかはわからない。
どうしてそれをしたのかがわからないことは、どうしてそれをしたのかがわかることよりも「始末に負えない」。



それは繰り返される可能性がある。
秀吉の朝鮮侵攻を論じた史書はあまり多くない。
その多くが「秀吉の行動は不可解」としている。
中には「秀吉は晩年、精神錯乱に陥っていた」という説を立てているものもある。
「気が狂っていた」ように見えるのは、その歴史学者が現代人の国民国家観を無意識に内面化したまま、そのようなものが存在しなかった時代の出来事を解釈しようとしているからではないかと私は思う。





明治維新の後に西郷隆盛は「征韓論」を唱えた。
この唐突なプランもまた現代の私たちにはほとんど理解不能である。
歴史の教科書は「西郷は外部に仮想敵を作ることによって、国内の士族の不満をそらそうとした」という「合理的」な説明を試みるが、そうだろうか。
豊臣秀吉と同じように「部族が統一されたら、次は『中原に鹿を逐う』事業を始めなくてはならない」という「中華思想内部的」な思想が西郷隆盛のような前近代的なエートスを濃密にもっていた人間には胚胎された可能性は吟味してもよいのではないか。
大久保利通と西郷隆盛の間の国家論的な対立を「華夷秩序コスモロジー」と「帝国主義コスモロジー」の相克として理解することはできないのだろうか。



事実、その後、日本が江華島条約で朝鮮半島への侵略を企てたとき、日本は直前に経験したペリーによる砲艦外交を再演し、陸戦隊による砲台の占拠では、四カ国艦隊による長州下関砲台占拠の作戦を再演してみせた。
これは日本が「華夷秩序のコスモロジー」を離れて「帝国主義のコスモロジー」に乗り換えたことの一つのメルクマールのように私には見える。

ある社会集団の「狂気じみた」ふるまいの意味を理解したり、次の行動を予測したりする上では、その集団の「狂気じみたふるまい」を主観的には合理化していた幻想の文脈を見出す必要がある。



繰り返し言うが、それはそのふるまいを「今の時点」で合理化するためではない。
私たちもまた今の時点で固有に歴史的なしかたで「狂っている」ことを知るためである。
国民国家のあいだの「和解」は、「私たちはそれぞれの時代において、それぞれ固有の仕方で幻想的に世界を見ている」ということを認め合い、その幻想の成り立ちと機能を解明するところから始める他ないと私は思っている。
もちろん、私に同意してくれる人はきわめて少数であろうけれど。




uchida : 2010年05月26日 ルーツについて、ほか。 (内田樹の研究室から転載しています) 

ルーツについてほか



忙しくてブログ更新できず。備忘のために速足でこの一週間の出来事を記しておく。
ツイッターには書いているんだけど、あれ備忘録としては機能しないですね。内容が散漫すぎて。



5月16-17日。
鶴岡宗傳寺にて法事。母、兄夫婦、従兄の雄介・成子ご夫妻、そして私。
雄ちゃんから内田家の家系図を示され、いろいろと祖先について学ぶ。
すでに何度か書いたことだが、内田の本家は埼玉県比企郡嵐山にある(亡父の代までは行き来があったそうだが、私は行ったことがない)。



私の高祖父にあたる内田柳松(りゅうまつ)がその家督を弟に譲って江戸に出た。
神田お玉が池の北辰一刀流玄武館で修業し、浪士隊の一員として京都に上り(柳松は一番隊隊士。六番隊が近藤勇率いる試衛館のみなさん)、彼らと訣別して、清河八郎とともに江戸にもどり、庄内藩預かりの新徴組に加わった。彰義隊の戦いのあと藩主酒井忠篤(ただずみ)を護衛して庄内に下り、戊辰戦争を戦った。



わりとスペクタキュラーな人生を過ごされたご先祖さまなのである。
柳松さんが庄内藩士であったのは、ほんのわずかな期間であるが、その恩を多として、明治維新後もそのまま鶴岡にとどまった。
家老の松平家から養子をもらい、その人が曾祖父の維孝(いこう)。
維孝さんはもとは会津藩の人。白虎隊に入ろうとしたが、年齢が足りなくて家に戻され、生き延びた。その点は柴五郎に似ている。
どういう事情で庄内藩の家の養子になったのか、その事情はつまびらかにしないが、庄内藩と会津藩は軍事同盟関係にあったから、藩士のあいだにも人的交流があったのかもしれない。





その後さらに松平家から内田家に養子に入った。その事情もわからない。
内田家はずいぶん貧乏だったらしく、維孝さんの子どものうち二男孝次が武田家に、三男信吉が鈴木家に養子に出された。長男重松、四男信次、五男五郎、七男清が内田姓を継いだ(六男は夭逝)。
私の祖父重松(しげまつ)は維孝さんの長男である。
祖父は私が生まれる前に死んだが、祖母高井(たかい)さんは長く生きて、ときどき岳父から聞いた白虎隊のことや庄内藩酒井家の当主のお姫さまの遊び相手に選ばれたことなどを話してくれた。



「賊軍」庄内藩と会津藩の流れを汲む一族であるから、明治時代はずっと冷や飯食いであった。内田家の人たちに歴代「へそまがり」が多いのはたぶんそのせいであろう。
内田の嵐山の本家の先代は内田範次郎さんとおっしゃる方である。戦後の食べ物がなかった時期、私の父はよく本家までお米を貰いに行ったそうである。本家は父たち兄弟を歓待してくれたそうで、父は本家とのつながりを大事にしていた。
当代は内田康憲さんという方である。その血筋の方々が埼玉にはおいでになると思う。
退職して時間ができたら、一度「ルーツ」をたどる旅をしてみたいものである。



5月17日。
飛行機で庄内-羽田-伊丹。そのまま大学で学部長会。
5月18日。
大学でゼミ二つ。小学館の取材。お題は親子関係。
5月19日。
会議、朝日新聞の取材、島崎徹さんとのトークセッション授業のあと、『Sight』の担当者だった大室みどりさんとご飯を食べる。
就職と結婚の二大身の上相談を同時にされる。
結婚予定のお相手の名前を聴いてびっくり。ええええええええ。
いつのまに、そんなことを。



5月20日。
授業、面談、そのあと『考える人』の「日本の身体」のための対談。お相手は平尾剛さん。場所は引越したばかりの阪神御影のペルシエ。
お野菜はもちろん淡路島の橘真さんの提供である。
競技スポーツと学校体育とスポーツメディアについて、ふたりでたいへん「辛口」のコメントをする。



5月21日。
ゼミ、会議、NHKの取材、会議。それから朝日カルチャーセンターで名越康文先生との対談。
NHKの取材はテレビ。
ふだんはテレビの取材は受けないのだが、これはNHKワールドという外国向けの英語放送で、「日本国内で見る人はいません」ということなので出演を承諾する。
日米関係の話をする。
名越先生との対談はいったい何を話したのか、三日経つともう何も覚えていない。

たいへん面白かったことだけは覚えている。
二次会で名越先生が「実名全開トーク」。絶対活字にできない話。



5月22日。
第48回全日本合気道演武大会のために東京の日本武道館へ。
毎年自慢するように、私はこの演武会に1977年から皆勤である。34回連続で出場しているのである。
一度も風邪も引かず、急な仕事も入らず、冠婚葬祭とぶつかることもなかった。
出場者7500人のうち、34回連続出場はその1割に満たぬであろう。
この記録をどこまで伸ばせるか。



演武後、例年のように九段会館屋上にて多田先生主宰のビールパーティ。
北澤くん、タカオくん、のぶちゃんら気錬会の諸君と歓談。
東大気錬会と早稲田合気道会の現役の幹部のみなさんが来る。
日曜の三大学合同稽古会で私が指導をすることになったので、そのご挨拶。
さわやかな方たちである。
二次会をパスして等々力の母の家へ。
朝早かったのであまりお話もせずにすぐ爆睡。



5月23日。
母の手づくり朝ご飯をいただき、早々においとま(せわしなくてすみません、お母さん)
早朝より(9時半はウチダ的には「早朝」である)駒場の第一体育館にて三大学合同稽古。
ひさしぶりのイベント。
鍵和田くんと原くんが両大学の主将だったときにうちも呼んでもらって、いっしょにお稽古をしたのが始まり。
駒場で稽古するのはヒロタカくんが気錬会の主将だったとき以来である。
お昼に稽古が終わり、坪井兄、梶浦兄にご挨拶してから、当代主将の松村くん、先代主将の中村くんに見送られて駒場をあとにする(みなさん、お世話になりました!)
渋谷に出て平川君と会って、新宿御苑のラジオカフェでラジオ収録。
お題は普天間問題とツイッター。





日曜の無人のオフィスでコーヒーを飲みながらわいわいとおしゃべり。
雨の中、平川くんの車で東京駅まで送ってもらって、こんどは筑摩書房の吉崎さんと打ち合わせ。
また本を一冊書くことになってしまった・・・
5月24日。
高橋源一郎『「悪」と戦う』と村上春樹『BOOK3』をめぐる鼎談(沼野充義、都甲幸治さんと)を仕上げて送稿。
大学で修論の面談、部長会、ミッションステートメントについて管理職会議、AERAの取材。メディアの普天間報道について批判(平川くんやジローくんも書いているとおり、マスメディアの普天間報道は「米軍基地の全面撤去」という主権国家としての当然の要求を抑圧している)。



それからAERAのみなさん(大波さん、市川さん、小境さん)と三宮に出てKOKUBUでステーキ。國分さん、ごちそうさま。
5月25日。
下川先生のお稽古。それから授業二つ。授業のあいまに原稿を書いていたら、毎日新聞から電話取材。「事業仕分けについてどう思うか」というお問い合わせ。
「諸悪の根源」を想定して、それを除去すれば万事解決という発想は「供犠儀礼」的なものであり、短期的には有効だが、長期的には市民的成熟を妨げるので運用は慎重に、ということを申し上げる。



制度改革というのはできるならば怒号や罵声の中でなされるべきものではない。
できうるならばそれは「それぞれの分野における職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって管理、運営されるもの」でなければならない。
そこにはできるだけ政治イデオロギーや市場原理が介入すべきではない。
これを宇沢弘文先生は「フィデュシアリー(fiduciary)の原則」と呼んでいる。(宇沢弘文、『社会的共通資本』、岩波新書、2000年、23頁)



Fiduciary とは「受託者、被信託者」のことである。
それは私の用語で言えば「大人」ということである。
システムの保全と補修を主務とし、そのことについて誰からも賞賛も報酬も求めない「雪かき」の別名である。
私たちの国の不幸は、官僚にも政治家にも「大人」が少ない、あまりにも少ないということである。
大学院ゼミは「○○と日本」の○○には好きな国名を入れて毎回それを論じるという比較文化論のゼミである。



今回は「ユダヤと日本」
土曜日に日本ユダヤ学会の公開講演で「どうして日本人はユダヤ人の話をしたがるのか?」という演題で話すことになっているので、それについて考えながら発表を聴く。
考えた末の、私の結論は「日本人は本質的に日猶同祖論者的である」というびっくりものである。
どうしてそういうことになるのかは土曜日の講演でお聴きください。
学会員でないかたもご来聴になれます。
とき:5月29日(土)15時から
ところ:早稲田大学戸山キャンパス36号館382教室




uchida : 2010年05月26日 マトグロッソ始まりました。 (内田樹の研究室から転載しています)

マトグロッソ始まりました

お待たせしました、ようやくマトグロッソ始まりました
やれやれです。
http://www.matogrosso.jp/
ブックマークしておいてくださいね。
いろいろな企画があるんですけれど、NSPもその中にあります。

いよいよ本格的にストーリー募集です。

募集要項
National Story Project Japan

みなさん、こんにちは、内田樹です。
ポール・オースターの『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』の「日本版」を作成することになりました。
お読みになった方はご存じですよね。新潮社とアルクから訳が出てます。翻訳は柴田元幸さんたち。
『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』はどういうものかと申しますと、アメリカのいろいろな普通の人たちに寄稿してもらったショート・ストーリーの中から佳作をラジオでポール・オースターが朗読するという、それだけのものです。
でも、これが面白いんです。
ポール・オースターはラジオで、どのような物語を求めているかについてこんなふうに話しました。



「物語を求めているのですと、私は聴取者に呼びかけた。物語は事実でなければならず、短くないといけませんが、内容やスタイルに関しては何ら制限はありません。私が何より惹かれるのは、世界とはこういうものだという私たちの予想をくつがえす物語であり、私たちの家族の歴史のなか、私たちの心や体、私たちの魂のなかで働いている神秘にしてはかりがたいさまざまな力を明かしてくれる逸話なのです。言いかえれば、作り話のように聞こえる実話。大きな事柄でもいいし小さな事柄でもいいし、悲劇的な話、喜劇的な話、とにかく紙に書きつけたいという気になるほど大切に思えた体験なら何でもいいのです。いままで物語なんか一度も書いたことがなくても心配は要りません。人はみな、面白い話をいくつか知っているものなのですから。」(『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』、ポール・オースター編、柴田元幸他訳、新潮社、2005年、10頁)



そうやって集まったショート・ストーリーは4000通を超えました。
それはあらゆる場所の、あらゆる年齢の、あらゆる職業の語り手による、信じられないほどに多様な「作り話のように聞こえる実話」。それを読んでいるときポール・オースターは「アメリカが物語を語るのが私には聞こえた」(11頁)と感懐を述べています。
どのような物語が収集されたかは実物を徴していただくとして、このプロジェクトの日本版をやることになりました。



どういう事情でぼくと高橋源一郎さんがこのプロジェクトにかかわるようになったのかについてなど事細かに話す機会はいずれあると思いますが、とりあえずはお知らせ。
「物語を求めています。」
「本当にあった『嘘みたい』な話」

ある出来事を「嘘みたい」と思うか、「そんなのよくあることじゃないか」と思うかの識別の基準は客観的なものではありません。それはあくまで主観的なものです。「嘘みたい」と思うときに、その人の、余人を以ては代え難い、きわだった個性が露出する(ことがある)。たぶん、そうなんだと思います。つねにそうなるとは限りませんけれど、そういうことが起こる確率が高いはずです。



「その人にとってはあり得ないはずのこと」があり得たという事件を語るさまざまなアメリカ人の証言を通じて、ポール・オースターは「アメリカが物語るのを聴いた」のでした。同じようにして、ぼくたちも、「日本が物語るのを聴いてみたい」と思います。




■テーマ
トライアルをやって何十通か応募原稿を拝見してみましたところ、選択される主題にかなり「偏り」があることがわかりました。それなら逆に、テーマを自由に選んでもらうより、こちらからテーマを指定して書いてもらった方がむしろ面白いものが集まるかな・・・と考えたので、テーマ指定で募集することにしました。
とりあえず第一次募集(第二次募集のときはまた告知します)のカテゴリーは以下の通りです。ご自分のストーリーはどのカテゴリーのものかを原稿に明記して応募してください。



「犬と猫の話」
「おばあさんの話」
「マジックナンバーの話」
「ばったり会った話」
「もどってくるはずがないのに、もどってきたものの話」
「そっくりな人の話」
「変な機械の話」
「空に浮かんでいたものの話」
「予知した話」
「あとからぞっとした話」



以上10個が第一次募集のテーマです。
適当に今書きだしたんですけれど、ぼくはたちまち三つ思いついてしまいました(「空に浮かんでいたものの話」と「あとからぞっとした話」と「猫の話」)審査員だから書きませんけど。



それ以外の応募条件。




■字数
長さは1000字まで。
短い分にはいくら短くても構いません。トライアルのときに「2000字以内」って書いたら、長過ぎたらしく、みんな「序文」と「あとがき(というか教訓とか反省とか)」を書いてきました。申し訳ないけど、そういうのは要りません。ショート・ストーリーの要諦は「いきなり始まって、ぶつんとカット・アウト」です。ロックンロールと一緒。



■応募資格:年齢・性別・職業・国籍は問いません。ただし、プロジェクトはあくまで「ジャパン」ですから、そのストーリーを通じて、日本の「何か」が浮かび上がるものであることが条件です。


■締め切り:随時募集しております


■選者:ぼくと高橋源一郎さんが審査します。そのほか誰か「やってもいいよ」という奇特な人がいたら、その人にもお願いすることがあるかもしれません。


■発表:本サイトにて随時発表させていただきます。書籍化する(ことがあったら)収録させていただくことがあります。


■注意:謝礼はお出しいたしません(すみませんね)。書籍化した場合は収録させていただいた方に一冊ずつ送らせていただきます。


■原稿は返却いたしません。また、選考に関するお問い合わせには応じられません(「なんで落とした」なんて言われてもね)。


■応募方法についてはamazonの方をみてください。
みなさまのご応募、心よりお待ちしております。

ポール・オースターは「人はみな、面白い話をいくつか知っているものなのですから」と書いていますけれど、これは日本人の場合はどうかな~とぼくは実は思っているのです。
いろいろなバックグラウンドをもっている、性別も年齢も身分も立場違うひとたちが「たまたま」ある場所に行き会わせて、一夜をともにするときに「とっておきの話」をするというのは、『デカメロン』や『カンタベリー物語』以来のヨーロッパ文学の定番ですけれど、アメリカにもその伝統は脈々と伝わっているんじゃないかと思うんですよ。
移民の国ですしね。



そもそもわりと冒険的な気質の人たちが集まって作った国ですから、「奇想天外な経験談」には事欠かない。
マーク・トウェインとか、メルヴィルとか、ポウなんかも、そういう「ホラ話」の伝統を引き継いでいるんじゃないかな。
現代文学でも、フィッツジェラルドの「ダイヤモンドの山」の話なんかも、ある意味その「ホラ話」系かもしれないです(フィッツジェラルドはもう「現代文学」とは言わないか・・・)



だから、そういう話の仕込みはわりとふだんからまじめにやるという「ストーリー・テリング」のための訓練はしているんじゃないですかね。
それに比べてわが国の人々はどうか。
「とっておきの話」の二つ三つはいつでも出せるという人はあまりいないんじゃないでしょうか。
パーティジョークとか、日本人やらないでしょ。
妙に器用にそういうジョークを連発する人って、日本だと「怪しい人」だと思われません?
でも、ぼくはそれはそういう感覚でいいんじゃないかと思ってもいるんです。
もしかすると日本人が得意なのは「オチのない話」じゃないって思うんですよ。
ぜんぜんパーティジョーク向きじゃない話。



「は?その話のどこが面白いの・・・」というような話を妙にたいせつに抱え込んでいるというところがむしろ「にほんじん的」ということはないのでしょうか。
というようなことを考えています。
どんどんお話送ってくださいね。
源ちゃんとふたりで待ってます。